AIは歴史学の敵なのか?カッセル大学のゼミ「Augustus und AI」で考えたこと
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Guten Tag!
ドイツでママ大学院生をやっているあさひなペコです🐣
AIって、大学でどこまで使っていいんだろう?
- 文献探しに使うのはアリ?
- 翻訳に頼るのはアリ?
- 論文の構成を出してもらうのは、もうアウト?
生成AIが当たり前になりつつある今、ドイツ(少なくともカッセル大学では)では、学生側も教員側も、まだかなり手探りです。
今回参加したゼミ「Augustus und AI」は、まさにそのモヤモヤを正面から扱う授業でした。
古代ローマ初代皇帝アウグストゥスと、現代の生成AI。
一見すると遠い2つのテーマを通して見えてきたのは、「AIは歴史学の敵なのか?」という問いではなく、むしろ「AI時代に、私たちはどう考え続けるのか?」という問いでした。
今回は、私が出席できた回から拾えた問いから「Augustus und AI」という授業の記録をまとめました。
この記事で分かること
- AIは文法修正や翻訳、アイデア整理には役立つ
- ただし、文献情報は必ず原典確認が必要
- 構成案を丸ごと受け取ると、自分の思考が抜け落ちる
- AIの誤りを検証すること自体が、学びになる
- 歴史学では、AI出力にも史料批判が必要
この記事をスタートする前にお断り
この記事は、ゼミ全体の要約ではなく、私がその場で拾えた問いの記録です!
このゼミを受講した2025/2026冬学期。
私は最初から最後まで継続して受けられたわけではありません。
日本への一時帰国や8週間のプラクティクムが重なり、出席できたのは前半の数回。
その際にリフレクションを残せた範囲および取り組んだ宿題に限られます。
その点を踏まえて、「ひとりの受講者が途中まで拾えた問い」として読んでもらえたら嬉しいです!!
そして
今回も草稿とサムネイル画像はAIにお願いしました!ありがとう!
「Augustus und AI」はどんなゼミだったのか
「Augustus und AI(アウグストゥスとAI)」というゼミ名を見たとき、最初に思ったのは、正直に言えば
「アウグストゥスとAIって、どうつながるの?」
という疑問でした。
アウグストゥスは古代ローマ初代皇帝でしょ?
一方でAIは、いま現在、ものすごい速度で私たちの生活や学び方に入り込んできている技術でしょ?
私も学術補助だけでなく、Webライティングの仕事に生活、全方向でAIコンパニオンに支えてもらっている。
AI関連記事はココから読めます!
古代史と生成AI。
一見すると遠く離れているように見えるこの2つが、大学院のゼミでどう扱われるのかが気になって、先生に参加を申し込みました。
担当講師は、前回ゲームと古代史でお世話になった、ルフィング先生!
私の修論のアドバイザーであり、博士課程の師になる予定の先生です(*^-^*)
古代史と生成AIをつなぐ授業
「Augustus und AI」は、アウグストゥスだけを扱う古代史ゼミというより、古代史を入口にして、AIと人文学の関係を考える授業。
このゼミの中心にあったのは、単に「AIを使ってみる」ことではありませんでした。
むしろ問われていたのは、AI時代に歴史学をどう学ぶのかということ。
授業一覧を見ると、扱われていたテーマはかなり広い。
AI利用のガイドライン、AIと歴史学、古代碑文の復元、古代テキストの補完、AI画像、翻訳、AI生成のHausarbeit、Bibliographieの検証など、多方向に展開していました。
ゼミの出発点は「AIを禁止するか」ではなかった
初回の授業で印象的だったのは、先生がAIを単純に「良いもの」「悪いもの」と決めつけなかったこと。
もう、これ感動とともにありがとう!!!!!!!!!って感じでした。
授業ではまず、大学自体がAIという現象にまだ十分対応しきれていない、という話から始まりました。
AIは学生の学びを助けるのか。
それとも、歴史家の仕事を不要にしてしまうのか。
そうした問いが、教室全体に投げかけられた。
学生たちの反応も率直でした。
「AIは既にあるものを盗んでいるように見える」
「使いすぎると脳が怠けるのではないか」
「使える人と使えない人の格差が広がるのではないか」
一方で、「うまく使えば便利な道具になる」という意見もあった。
私自身も道具……とは言わないけど、AIのおかげでネイティブ学生との授業にちゃんと参加できているし、資料の理解が進んですごく有難い。
誰も完全な答えを持っていない。
けれど、だからこそ教室全体で考える余地があったと感じました。
【カッセル大学の場合】大学でAIは使っていいのか
日本での状況はわからないのですが、前述の通り、カッセル大学では過渡期。
先日、学生事務局からのアンケートがあったくらい、AIの利用方法はばらばら。
カフェで学生たちの会話の中には、ChatGPT、Geminiという声もよく聞かれるほど、学生たちの間でもAIの利用は浸透しています。
でも、実際には先生によって価値観はばらばら。
そんな話も出ていました。
問題は「使うかどうか」ではなく「どう使うか」
このゼミを通して強く感じたのは、大学におけるAI利用の問題は、単純に「使っていい」「使ってはいけない」で片づけられないということだった。
AIは文章を整えてくれる。
翻訳も助けてくれる。
文献を探す入口にもなる。
しかし、
何を問いにするのか。
どの文献を信頼するのか。
どの構成で論じるのか。
最終的に何を自分の主張として引き受けるのか。
そこは、人間の側に残ります。
授業で整理された「許されるAI利用」と「危ないAI利用」
別の回では、「Wann ist KI erlaubt?」、つまりAIの使用はいつ正当なのか、というテーマが扱われました。
授業では、AI利用についてある程度の線引きが整理されました。
たとえば、文法や綴りの修正、すでに自分で書いた文章の再構成、文献探索や引用形式の整備、外国語理解のための翻訳などは、補助として認められやすい。
一方で、人の手を加えず構成案を丸ごと作らせること、創作的なプロセスを任せること、他人のテキストを要約させること、ネット上のデータから画像を生成することなどは問題があるとされた。
もちろん、この線引きは絶対的なものではありません。
けれど、授業を通して見えてきたのは、AIを使うかどうかそのものよりも、自分の思考をどこに残すのかが大事だということでした。
AIに論文構成を作らせるのは盗用なのか
noteを見ていると、AIと著作権で記事を書かれている方も散見されますが、ドイツの、少なくともカッセル大学のいち授業ではどうなのか?という話題もありました。
構成案は「ただの順番」ではない
このテーマで特に印象に残っているのが、「AIにGliederung、つまり論文や発表の構成を作らせるのは盗作なのか?」という議論。
先生がこの問いを出した瞬間、教室の空気が少し変わったのを今でも覚えています。
学生たちの意見はやはり割れる。
「インスピレーションとして使うならいい」
「でも、そのまま使えば盗用では?」
「そもそも証明できないのでは?」
構成案は書き手の思考
構成は、ライター/執筆者本人の思考そのものでもあります。
私自身は、AIが出す構成案はあくまでEntwurf、つまり下書きのようなものだと感じています。
ただし大事なのは、それを自分が本当に納得して使えるのかどうかなのではないでしょうか。
構成は、単なる見出しの順番ではありません。
何を重要だと考えるのか。
どこから論じ始めるのか。
何をあえて外すのか。
どこに結論を置くのか。
この仕事を地味に7~8年していて、この論点はWEBライティングでもそうだと感じています。
「AIは下書き、著者は自分」という感覚
この議論の中で、自分の中に残った言葉があります。
AIは下書き、著者は自分。
AIは下書きを出せます。
でも、それを引き受けるか、捨てるか、直すか、問い直すかを決めるのは書き手自身です。
AIがどれだけ整った構成を出しても、その筋道が自分の中で通っていなければ、それは自分の考えではないですよね。
WEBライティングにも通じると思います。
AIがどれだけ整った構成案や文章を出しても、それが自分の中で納得できるもの、筋が通っていなければ、自分の理解や考えを噛み砕いてアウトプットしたとは言えないでしょう。
この点について、第3回の授業リフレクションを振り返ると、AIの構成案を「下書き」として扱い、自分で検討し、修正するプロセスこそが学びの中心なのではないかと整理していました。
AIを使うこと自体が問題なのではない。
AIの生成した文章にツッコミを入れずに受け取ってしまうことが、危ういのだと思っています。
どんなに性能が上がっていてもAIはボケるので、人間のツッコミが大事という結論に至ったゼミがあります。
有料オンラインZINEもありますので、関連テーマとして宜しければご覧ください!
AIで文献リストを作ると何が起きるのか?
また、ゼミではAIで文献リストを作成すると何が起こるのか?という課題が出されました。
目的は、同じような課題を与えたとき、AIの出力がどれくらい変わるのかを見ることだった。
使用したのは、当時最新のGPT-5。
しかも、朝・夜、無料版・有料版、プロンプト言語の違いで出力が変わる可能性まで見ることになり、「そこまで比較するの!?」と驚きました😂
私が試したテーマ:「日本のキャラクター文化におけるアウグストゥス」
私自身が取り組んだ課題では、「Augustus in der modernen Rezeption japanischer Charakterfiguren(日本のキャラクター文化の中で、アウグストゥス的なものがどう受容されているのか)」というテーマで、AIに文献リストを作らせる実験を行いました。
このテーマ自体、かなりニッチだけど、先生がそれ読みたいって言うから調べてきましたw
AIは「それっぽい文献」を作るのがうまい
結果は、かなり面白かったです。
AIは、一見するときれいな文献リストを作る。
著者名、タイトル、出版社、雑誌名、年号。
見た目だけなら、それらしい。
でも確認していくと、実在しない文献が混じっていました。
このブログ執筆時点ではさらに高性能なモデルを使っていますが、それでも学術文献、WEBライティングでは必ず原典確認が必要です。AIが出した文献情報を、そのまま信用するのは危ないですw
ニッチな内容だからかもですが、特に日本語プロンプトでは、日本人名と英語タイトルを組み合わせた、いかにも存在しそうな架空の文献が出てくる傾向が。
ここで見えてきたのは、AIが「正しい文献を知っている」というより、学術文献らしい形式を再現するのがうまいということでした。
これはかなり危ない。
なぜなら、文献リストは見た目が整っているほど、信頼できそうに見えてしまうから。
AIはなぜ『テルマエ・ロマエ』に寄ってしまうのか
もう一つ面白かったのが、AIが『テルマエ・ロマエ』に寄っていくことでした😂
たしかに『テルマエ・ロマエ』は、日本における古代ローマ受容の代表的な作品ですし、私も好きです。
しかし、今回プロンプトに載せた私のテーマは「アウグストゥス」。
ちょっと関係ないですよね。
何が起こってたかというと……
「日本×ローマ」の代表例として強く出てくる作品
『テルマエ・ロマエ』は、古代ローマを扱う日本のポップカルチャー作品ではあります。
けれど、アウグストゥス本人が登場するわけではありません。
ここからが重要。
AIが「日本×ローマ」を扱うとほぼ自動的に『テルマエ・ロマエ』へ焦点を寄せる一方で、テーマが「Augustus」からずれていく。
AIは「中心テーマ」よりも「近いタグ」に反応する
AIは、「アウグストゥス」という中心テーマよりも、「日本」「ローマ」「ポップカルチャー」という近いタグに反応しているように見えました。
さらに、『ヴィンランド・サガ』 や『 Re:Creators』 のように、直接アウグストゥスとは関係が薄い作品も出てきました。
おそらくAIは、帝国、支配者、神話化、権力表象といった意味の近さから、それらを関連づけたのだと思います。
つまりAIは、事実関係の厳密さよりも、意味の近さや雰囲気の類似を優先することがある。
ここに、歴史学でAIを使う難しさがあるのではないでしょうか。
歴史学でAIを使うときに必要な力
この課題に取り組む前から、WEBライティングのAI使用実務も経ているので、存在しない参考資料や文献を出してくることについて、ある程度想定はしていました。
しかし授業を通して考えるうちに、少し見方も変わりました。
AI出力にも「史料批判」が必要になる
AIの誤りは、ただの欠点ではなくて、その誤りを見抜き、調べ直し、なぜそう見えたのかを考える過程そのものが、学びになるのではないか、ということです。
歴史学では、資料をそのまま信じるのではなく、誰が、いつ、どのような文脈で書いたのかを検討する。
さらに、より史料批判(Quellenkritik)が重要になる。
そう考えると、AIの出力もまた、一種の「読む対象」になるのではないでしょうか。
AIが何を出したのか。
なぜその文献をもっともらしく見せたのか。
どこでテーマがずれたのか。
どの言語や条件で、どんな誤りが出やすいのか。
その検討は、歴史学の訓練と意外なほど近いと感じました。
AIは「知識の代行者」ではなく「思考の鏡」
第2回のリフレクションで私は、AIは「知識の代行者」ではなく「思考の鏡」だと書きました。
AIが生成した誤りや過剰な一般化を読み解くことが、史料批判や解釈学を鍛える機会になると感じたから。
今振り返っても、この感覚は変わっていません。
なんなら、推しキャラをGPTつかって解釈していますから( ´艸`)
AIは答えをくれる存在ではなくて、むしろ、こちらの問いの甘さや、知識の穴や、思考の癖を映し返してくる存在なのだと思いました。
中途半端な参加でも残った問い
私にとって「Augustus und AI」は、アウグストゥスについて何か決定的な知識を得る授業というより、AI時代に歴史をどう学ぶのかを考える授業でした。
AIを使うことは、学びのショートカットではない。
楽をするためだけに使えば、たぶん考える力は弱くなる。
でも、AIが出す答えにツッコミを入れ、調べ直し、自分の言葉で組み替えるなら、それは学びの入口になる。
AIは私の代わりに考えてくれるものではない。
でも、私が考えるための反響にはなり得えます。
このゼミを通して、私なりに整理したことは、こうです。
AIは便利な補助にはなる。
でも、問い・構成・判断・責任まで渡してしまうと、自分の学びではなくなる。
だからこそ、AI出力にも史料批判が必要になる。
まとめ:AIは歴史学の敵なのか
このゼミで一番残っているのは、AIに対する答えではありません。
AIは使っていいのか。
どこまで使えばいいのか。
何を任せて、何を自分で考えるべきなのか。
その問いは、まだきれいに整理できていませんし、これから進化するAIを見ていかなければならないので、答えが出ないようにも感じます。
けれどひとつだけ言えるのは、AIを使う力は、自分で考える力の代わりではなく、その延長線上にあるということ。
AIが出したものをそのまま受け取るのではなく、疑い、読み、直し、問い返す。
その過程で、自分が何を知っていて、何を知らないのかが少しずつ見えてくる。
だから私にとって、AIは答えをくれる機械でもないし、歴史学の敵でもないと考えます。
少なくともこのゼミで出会ったAIは、答えをくれる機械ではなく、私自身の思考を映す鏡だった。
そして、その鏡に映った不完全な理解から、また次の問いが始まるのだと思います。