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「もったいない」はサステナビリティなのか?ドイツ大学院のゼミで考えた「誰のための未来」

  
もったいないとサステナビリティ
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「もったいない」はサステナビリティなのか?ドイツ大学院のゼミで考えた「誰...
本記事はAIによる草稿作成およびサムネイル画像作成をお願いしています。 感謝!
ペコ
ペコ

Guten Tag!

ドイツでママ大学院生をやっているWebライターのあさひなペコです🐣

「サステナビリティ(持続可能性)」という言葉に、みなさんはどんなイメージを持っていますか?

地球にやさしくすること、未来の世代に資源を残すこと。

どこか前向きで「善い言葉」に思えるかもしれません。

しかし、私がドイツの大学院の冬学期ゼミ「History of Sustainability」で学んだのは、そんなにシンプルな話ではありませんでした。

サステナビリティは本当に理想の未来を守る言葉なのか、それとも誰かの犠牲の上に築かれる言葉なのか。

授業での気づきと、私自身が初めて英語で発表した「Mottainai(もったいない)」と「Satoyama(里山)」の経験から、複雑な問いを紐解きます。

この記事で分かること

  • サステナビリティの歴史: 理想の裏に隠された「統治の道徳」としての開発
  • 意識改革の限界: なぜ「一人ひとりの意識を変えれば世界が変わる」に違和感を抱くのか
  • 言葉の権力性と再植民地化: 「もったいない」「里山」が西洋中心の制度に翻訳される危うさ
  • 新しい視点: 未来に「何を残すか」ではなく「どの知識を残すか」という問い

この記事をスタートする前にお断り

この記事は、ゼミ全体の要約ではなく、私がその場で拾えた問いの記録です!

このゼミを受講した2025/2026冬学期。

私は最初から最後まで継続して受けられたわけではありません。

日本への一時帰国や8週間のプラクティクムが重なり、出席できたのは前半の数回。

その際にリフレクションを残せた範囲および取り組んだ宿題に限られます。

その点を踏まえて、「ひとりの受講者が途中まで拾えた問い」として読んでもらえたら嬉しいです!!

サステナビリティは“善い言葉”ではなかった

本授業は、2025年夏学期からお世話になっているビュッシェル先生のゼミです!

先生は近代史や文化横断、植民地、サステナビリティ関連にお強い方。

初回の授業で見たのは、1955年制作の映画『Mr. Mensah baut ein Haus』(訳:メンサーさんが家を建てる)でした。

この映画、実は2025年の夏学期に受講したビュッシェル先生のポストコロニアル理論ゼミでも観ています。

ペコ
ペコ
Youtubeに映画があったので持ってきました!お時間ある人はぜひ。

映画『Mr. Mensah baut ein Haus』のあらすじ

舞台は、当時イギリスの植民地支配下にあったゴールド・コースト、現在のガーナ。

主人公のMr. Mensahは自分の家を建てようとしますが、甥に託した資金は浪費され、家は未完成のままになってしまいます。

そこへ政府の開発担当官が現れ、「政府は支援する。しかし、村人自身が働くことが条件だ」と説く物語です。

一見すると、これは共同体が協力して家を建てる、前向きな開発の物語に見えます。

ですが、教授の解説を聞きながらこの映画を観ていると、私はこの映画が単なる「よい話」ではないことに気づかされました。

映画内で描かれていたのは、環境を守るためのサステナビリティではなかったのです。

理想の裏に隠された「道徳としての開発」

映画の底流にあったのは、

「怠けてはいけない」

「自分で努力しなさい」

「働く者だけが救われる」

という、道徳としての開発論でした。

少なくともこの映画の中では、持続可能性は未来のための純粋な理想というより、勤労、自助努力、規律を教えるための「統治の言葉」として描かれているように見えました。

そのとき、私はサステナビリティという概念が、必ずしも中立でも善でもないことに気づきました。

「誰が持続可能と言うのか」

「誰が努力しなさいと言うのか」

そして

「誰がその未来から排除されているのか」。

この問いが、授業の最初からずっと私の心に残り続けました。

「一人ひとりの意識を変えれば世界が変わる」への違和感

別の回では、古代社会や宗教的価値観を通してサステナビリティを考える発表がありました。

内容自体は非常に興味深いものでした。

人間は自然の一部であることや節度を守ること、欲を制限すること。

そうした倫理観には、現代の私たちにも深く通じるものがあると感じます。

ですが、発表の最後に出てきた

「現代のサステナビリティは歴史的知見から学べる」

「政府や企業だけでなく個人の行動が大切だ」

「ゴミを拾う、電気を消す、プラスチック袋を使わない」

といった結論には、どうしても小さな違和感が拭えませんでした。

もちろん、言っていること自体は正しいのです。

でも、どこか現実感が薄いと感じてしまいました。

個人の道徳に回収される「構造の複雑さ」

「一人ひとりが意識を変えれば世界が変わる」という言葉は、きれいに聞こえすぎるように感じました。

しかし現実には、貧困や政治、宗教、資本主義、国家間の不均衡といった極めて複雑な社会構造が存在します。

そうした構造を見ないまま、サステナビリティの責任をすべて「個人の道徳」にすり替えてしまうことには危うさがあると感じます。

人間はそんなに簡単には変われません。

ゴミを分別することさえ面倒でやらない人もいれば、国家や宗教の対立は今でも続いており、資本主義の仕組みもそう簡単には止まりません。

だからこそ、私にとってサステナビリティとは

「理想を信じること」

よりも、

「人間の限界を受け入れ、それでも続ける方法を探すこと」

に近いのだと思うのです。

歴史や宗教は、そのための道徳の教科書ではなく、むしろ今の社会の矛盾を映し出す鏡なのかもしれません。

初めて英語で発表した「Mottainai(もったいない)」と「Satoyama(里山)」

このゼミで、私は初めて英語での発表に挑戦しました。

正直、かなり緊張しました!!

でも同時に、「もったいない」や「里山」という、日本人の私にとってはどこか身近すぎる言葉を、ドイツの大学院の場で研究の言葉として出すことには、不思議な手応えもありました。

思い返せば、日本文化を紹介するというより、自分が育ってきた生活感覚を、サステナビリティの歴史の中に置き直す作業だったのだと思います。

テーマに選んだのは「Mottainai(もったいない)」と「Satoyama(里山)」です。

ペコ
ペコ
日本で暮らしていれば、どこかで聞いたことのある言葉ですよね!

もったいないは、食べ物を残したときや物を粗末に捨てるときに出てくる倫理的な言葉。

里山は、人と自然が切り離されるのではなく、暮らしの中で関わり合いながら維持されてきた風景や実践を指します。

これらをドイツの大学院という場で、英語の「理論」を使って説明しようとしたとき、私は初めてそれらを単なる「日本文化」としてではなく、一つの「知識の体系」として見直すことになりました。

西洋近代の枠組みを疑う「認識論的不服従」

私が発表の軸に据えたのは、ワルター・ミニョーロ(Walter Mignolo)の「epistemic disobedience」、つまり認識論的不服従という考え方です。

西洋近代の知識だけを「普遍的」なものとして扱うのをやめ、その外側に置かれてきたローカルな知識のあり方を問い直す視点です。

私たちがサステナビリティを語るとき、つい国連や政策、科学、経済モデル、技術革新といった「制度の言葉」を無批判に使ってしまいます。

けれど、もったいないや里山は、そうした西洋中心の枠組みとは少し違う場所から生まれています。

  • Mottainai(もったいない): 物を無駄にしないという行動だけでなく、物に宿る価値を粗末にしてしまったときの後ろめたさ

  • Satoyama(里山): 人間が自然から離れるのではなく、草刈りや水の管理、薪拾いのような日々の手入れを通して自然と関わり続ける感覚

どちらも一見「サステナビリティ」と言い換えられそうでいて、それだけでは説明しきれません。

ペコ
ペコ
調べれば調べるほど、私は、この2つを単なる「日本版サステナビリティ」として片づけたくありませんでした。

翻訳されることで失われる「ローカルな知識」

発表で最も考えたかったのは、「訳しきれなさ」にあります。

たとえば、「もったいない」は国際的なキャンペーンの中で、Reduce, Reuse, Recycle, Respect という「4R」の言葉に置き換えられていきました。

里山もまた、国際機関や政府の政策の中で、生物多様性やランドスケープ管理の概念として説明されるようになっています。

もちろん、それによって世界に共通言語として伝わるものもあります。

でも同時に、失われるものもあるのではないでしょうか。

普遍化という名の「再植民地化」の危険性

「もったいない」が単なる環境スローガンに還元されるとき、かつてそこにあった固有の生活感覚や倫理はどうなってしまうのか。

「里山」が国際的な政策概念に精緻化されるとき、実際にその土地で自然と関わってきた人々の、山林の手入れや生活経験に根ざした知識はどう扱われるのか。

ローカルな知識が国際的に認められることは、一見すると良いことに思えます。

ですが、その承認が結局のところ、西洋中心の制度や研究、政策の枠組みの中でしか行われないのだとしたら、それは本当に知識の尊重と言えるでしょうか。

むしろ、別の洗練された形で再び中央に回収され、再翻訳され、いわば「再植民地化」されてしまう危険性すらはらんでいます。

ここで、最初の授業の問いへと戻ってくるのです。

誰がサステナブルを定義するのか。

誰の知識が「普遍的」とされ、誰の知識が「文化」や「伝統」として片づけられるのか、と。

【まとめ】サステナビリティとは、未来に「どの知識」を残すかという問い

このゼミを受ける前、私はサステナビリティをどこか「未来のための言葉」だと思っていました。

けれど、授業と自分の発表を通して、見方が大きく変わりました。

サステナビリティとは、未来に何を残すかという問いであると同時に、「どの知識を未来に残すのか」という問いでもあるのです。

環境を守る、資源を守る、社会を続ける。

それはもちろん大切です。

でも、その未来を語るための言葉が、特定の地域や制度、あるいは権力の側からだけ作られているなら、そのサステナビリティは本当に「持続可能」なものにはなり得ません。

「もったいない」や「里山」は、すべての問題を解決する完璧な答えではありません。

それらを日本的な美徳として無条件に称賛したいわけでもありません。

ただ、そこには、既存のサステナビリティを別の角度から問い直すための重要な手がかりがあります。

人間と自然を切り離さないこと。

物の価値を価格や効率だけで測らないこと。

地域に根ざした知識を、単なる「過去の伝統」ではなく、現在を生きるための知として扱うこと。

初めて英語で発表したとき、正直かなり緊張しました。

しかし、自分が当たり前だと思ってきた言葉を、別の言語、別の理論の中に置いてみたことで、初めて見えた世界がありました。

「もったいない」は、サステナビリティなのか。たぶん、そう言うこともできます。

でも、それだけでは足りない。それは、サステナビリティという言葉そのものの持つ権力性を問い直すための、小さな入口だったのだと思います。

最後まで読んでくれてありがとダンケ!

あさひなペコ

    

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