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「ファシズム」という言葉を使う前に。ドイツのゼミで学んだ国民の再生神話と現代への問い

  
ファシズムを学ぶ意味
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「ファシズム」という言葉を使う前に。ドイツのゼミで学んだ国民の再生神話と...

本記事はAIによる草稿作成および構成整理をお願いしています。

授業メモや課題文・セミナー資料をもとに、内容を確認しながら執筆しています。感謝!

ペコ
ペコ
Guten Tag!

ドイツでママ大学院生をやっている、あさひなペコです🐣

今回は少し重いテーマです。

カッセル大学のゼミで受けていたのは、「Faschismus in der Zwischenkriegszeit」、つまり戦間期のファシズムを扱う授業でした。

正直に言うと、このゼミについてブログに書くのは少し慎重になります。

「ファシズム」という言葉は、現代でもとても強い言葉として使われるからです。

ペコ
ペコ

政治的な批判の言葉としても、歴史を説明する言葉としても、時には感情的なレッテルとしても使われます。

だからこそ、授業を受けながら一番強く心に残ったのは、「ファシズムとは何か」を簡単に説明できるようになったという感覚ではありませんでした。

むしろ逆です。

「この言葉を使うときには、一度立ち止まらなければならない」

それが、このゼミで私に残った一番大きな問いでした。

この記事では、ファシズムを現代政治に安易に当てはめるのではなく、大学院の授業で扱った概念史・思想史・実践論の観点から振り返ります。

[box class=”pink_box” title=”この記事で分かること”]

  • 「ファシズム」という言葉を簡単に使えない歴史的・概念的理由
  • ロジャー・グリフィン(Roger Griffin)の「国民の再生」という考え方
  • 思想だけでなく、実践・暴力・儀礼としてファシズムを見る「実践論(praxeologisch)」の視点
  • フランスのジャック・ドリオ(Jacques Doriot)を通して見える、民主主義の内部に潜む誘惑
  • 育児と大学院を両立しながら、冬学期のゼミで私に残った問い

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単なる「独裁」ではない?ファシズム概念の難しさ

この授業を担当するのは、ジャーナリズム文章の授業や映画『ソイレントグリーン』を扱ったゼミでお世話になっていたレクアテ先生です。

授業でまず扱ったのは、ファシズム概念そのものの難しさでした。

ファシズムと聞くと、ヒトラーのナチズムやムッソリーニを思い浮かべる人も多いと思います。

もちろん、それは重要な入口です。

でも、ゼミで扱ったファシズムは、単に「独裁」「暴力」「極右」といった言葉だけで簡単に片づけられるものではありませんでした。

国や時代によって姿を変える「固定されない現象」

イタリアやドイツ、フランス、スペインなど、それぞれの国でファシズム的な運動や体制はまったく違う形を取りました。

ある国では国家主義が前面に出る一方で、ある国では人種主義や反ユダヤ主義が強くなる。

また別の国では、民主主義の内部にとどまりながらファシズム的な要素を持つ運動が広がっていくこともあります。

つまり、ファシズムは一つの固定された型ではなく、国や時代によって異なる姿を取る複雑な現象なのです。

安易なレッテル貼りが歴史を見えなくする

だからこそ、レクアテ先生が何度も強調していたのは、

「ファシズムという言葉は、根拠をもって使わなければならない」

ということでした。

これは、当時を振り返りながらブログを書いている私自身の胸にも深く刺さりました。

現代でも、気に入らない政治家や運動に対して、すぐ「ファシズム的だ」と言いたくなる場面はあるでしょう。

でも、その言葉を使うなら、何を根拠にそう言うのか。

独裁的だからなのか、暴力的だからなのか、それとも「国民の再生」という物語を掲げているからなのか。

その区別をしないまま言葉だけを雑に消費してしまうと、歴史を説明しているつもりで、むしろ現実の構造を見えなくしてしまうものがあります。

この授業は、まずその言葉の重みを自覚することから始まっていました。

ロジャー・グリフィンが提唱する「国民の再生(Palingenesis)」

ファシズムを考える上で、授業の大きな軸になったのがロジャー・グリフィン(Roger Griffin)の議論でした。

グリフィンは、ファシズムを単なる「過去への反動」としてではなく、「palingenetic ultranationalism(国民の再生をめざす超国家主義)」として捉えます。

単なるノスタルジーではない「未来を語る再生神話」

ここで重要なのは、ファシズムが単に「昔に戻りたい」だけの思想ではないという点です。

もちろん、ファシズムはしばしば「古代ローマ」や「民族の純粋さ」、「失われた共同体」といった過去の栄光を熱心に語ります。

ですが、それは単なるノスタルジー(懐古)ではありません。

ファシズムが本当に語るのは、「堕落した現在を徹底的に破壊し、新しい国民共同体を作り直す」という強烈な再生の物語なのです。

つまり、ファシズムは過去を利用しながら、常に「未来」を語る。

ペコ
ペコ
ここが何よりも怖いところだと思いました。

パブリック・ヒストリーが直面する「過去を語る」ことの危うさ

「昔はよかった」

と言うだけなら、まだ個人的な懐古にとどまるかもしれません。

しかし、「だから今の汚れた社会を壊して、強く美しい国民を作り直そう」という物語が加わると、ファシズム的な再生神話(Palingenesis)に一気に近づいていきます。

授業でこの話を聞きながら、私は自身が専攻しているパブリック・ヒストリー(Public History:公共歴史学)の観点からも「過去を語ること」の危うさを考えていました。

歴史を社会の中でどう語るか、過去をどう展示し、どう公共の場にひらくか。

過去はいつも安全なものではありません。

人を励ますこともあれば、記憶をつなぐこともある一方で、過去の栄光や傷を利用して人々を過激な運動へ動員することもあるのです。

どんな過去を、誰が、どんな目的で語るのか。

この問いは、ファシズムの授業を通してさらに重くなりました。

思想ではなく身体で参加する政治:スヴェン・ライヒャルトの実践論

もう1つ印象に残ったのは、ファシズムを思想だけでなく「実践」として見る視点です。

授業では、スヴェン・ライヒャルト(Sven Reichardt)の議論を通して、ファシズムを「praxeologisch(実践論的)」に見る考え方を扱いました。

行動のなかで思想が作られる「身体的政治」

これは、ファシズムを単に「頭の中の思想」や「党の綱領」として分析するのではなく、人々が実際に何をしたのか、どんな行動を繰り返したのか、どんな身体感覚や共同体感覚を作っていったのか、という「行為」からアプローチする視点です。

具体的にはこんな感じ。

  • 街頭行動や制服
  • 統制された行進や儀礼
  • 暴力と密接した仲間意識
  • 指導者への熱狂と「自分たちは行動している」という高揚感

こうした具体的な実践そのものが、人々に強烈な所属感を与えていきます。

ファシズムとは、本を読んで信じる思想というよりも、むしろ「身体で参加する政治」だったのだと思います。

人は必ずしも最初から明確な思想を持って参加するわけではありません。

最初は仲間がいるから、不安だから、あるいは社会に怒りがあるから。行動に参加する。

そのうちに、考え方や感情が後から形作られていくことがあるのです。

映画『意志の勝利』に潜む美的な演出の恐怖

授業では、ナチス・ドイツのプロパガンダ映画として知られる『意志の勝利(Triumph of the Will)』にも触れました。

当時のナチズムに触れていますので、閲覧する際は、ご自身の責任の下、慎重にお願いします。

もちろん、この映画を無批判に見ることはできません。

ですが、見ていて恐ろしいと思ったのは、「人を惹きつけるために徹底的に美しく作られている」ということでした。

整然と並ぶ群衆、巨大な集会、空から降り立つ指導者の演出には、政治が最高に美しく見えるように作られた世界がありました。

私は授業のメモの中に、

「もし当時、この最中に生きていたら絶対に感化されただろうな」

という率直な恐怖を書き残していました。

ファシズムを学ぶとき、

「自分なら絶対に騙されない」

と思ってしまうことほど危ういものはありません。

未来が見えない混沌とした時代に、美しく、力強く提示された「新しい始まり」の物語に、人は惹かれてしまうことがある。

それを「自分の問題」として考えることこそが、歴史を学ぶ意味なのだと思います。

民主主義の内側に潜む誘惑:ジャック・ドリオの事例から

このゼミで私が扱った個別テーマの一つに、フランスの政治家ジャック・ドリオ(Jacques Doriot)がありました。

共産主義からの転向:ジャック・ドリオという人物の軌跡

ドリオはもともとフランス共産党の有力な政治家であり、サン=ドニ(Saint-Denis)の市長でもありました。

しかし、1934年に共産党から除名された後、彼は次第にナショナリズムへと接近し、1936年に「フランス人民党(PPF:Parti Populaire Français)」を創設します。

私がビデオエッセイ課題の草稿で立てた問いは、

「民主主義国であったフランスで、なぜドリオのようなファシズム的リーダーが生まれたのか」

というものでした。

外部の怪物ではない、既存制度への失望が生む地続きの危機

ここで大事なのは、フランスが1930年代にドイツやイタリアと同じファシズム体制の道をたどったわけではない、という点です。

フランスは民主主義を維持していました。

だからこそ、フィリップ・ビュラン(Philippe Burrin)の議論でも、フランスにおけるファシズム概念の使い方には、慎重さが必要だとされています。

それでも、ドリオのような人物は確かに現れました。

共産主義から出発し、反共産主義とナショナリズムへ向かい、「第三の道」を語りながら強い指導者像や国民的統一の物語を掲げる。

この変化は、社会の不安、政治への失望、経済的な危機、わかりやすい敵を求める感情など、既存の民主主義制度への苛立ちが重なったところに、ファシズム的な運動が入り込んでくることを示しています。

ファシズムは突然どこか外からやってくる怪物ではなく、民主主義の内部から地続きに生まれうる誘惑なのです。

ファシズムという言葉を使う前に一度立ち止まる

このゼミを受けて、私はファシズムについてすべてを理解できたわけではありません。

ペコ
ペコ
どこまでをファシズムと呼んでよいのか、民主主義の中にある権威主義的な欲望をどう見分ければよいのか。

むしろ、分からないことの方が増えました。

しかし、この「分からなさ」こそが大事なのだと思っています。

ファシズムという言葉は強いからこそ、雑に使えば相手を黙らせるための凶器になってしまう。

一方で、慎重になりすぎて何も言えなくなれば、現実の危険を見逃してしまう。

必要なのは、そのあいだに立ち、歴史的な根拠(エビデンス)を持ちながら、現在の社会を注意深く観察し続けることではないでしょうか。

【まとめ】育児と大学院を両立した冬学期を振り返って

冬学期のゼミを振り返ると、出産後の身体で、育児をしながら、ドイツ語の文献を読み、授業についていくのは本当にギリギリの毎日でした。

正直、毎回余裕があったわけではありません。

でも、当時の授業ノートを見返すと、いくつかの問いが残っています。

ファシズムとは何か。

なぜ人は「再生」の物語に惹かれるのか。

政治はなぜ美しく演出されるのか。そして、歴史を学ぶ私たちは、強い言葉をどう扱えばよいのか。

この問いは、授業が終わってもまだ続いています。

だからこの記事も、答えではなく、「問いノート」としてここに残しておきます。

最後まで読んでくれてありがとダンケ!

あさひなペコ

📚参考にした授業・文献

  • カッセル大学ゼミ「Faschismus in der Zwischenkriegszeit」授業ノート
  • Roger Griffin, The Nature of Fascism
  • Sven Reichardt, Faschistische Kampfbünde
  • Philippe Burrin, „Faschismus und Antisemitismus in Frankreich“
  • Jacques Doriotに関するビデオエッセイ課題

    

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