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リアーチェのブロンズ像復元展「haut nah」で考える古代彫刻の「本物らしさ」とPublic History

  
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リアーチェのブロンズ像復元展「haut nah」で考える古代彫刻の「本物...
本記事はAIによる草稿作成およびサムネイル画像作成をお願いしています。 感謝!

※サムネイル画像と実際の展示構成と異なっていますので注意を!

ペコ
ペコ

Guten Tag!

ドイツでママ大学院生をやっているWebライターのあさひなペコです🐣

先日、ドイツ・ゲッティンゲン大学の石膏像コレクションに初めて行ってみました。

お目当ては、イタリア・カラブリア地方で発見された古代ギリシアの傑作「リアーチェのブロンズ像」の現代復元展!

プラクティクムでお世話になったスプリッター先生ほか、Hessen Kassel Heritageでコレクション管理をしている人が同時に推していたので、それで行ってみた、というわけです。

ペコ
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プラクティクムについては↓

そこで今回は、単なる「古代美術の鑑賞」に留まらない、復元がもたらす歴史の解釈や、「本物(オリジナル)と複製(コピー)」の価値の逆転について、Public History(パブリック・ヒストリー)の視点から考察します。

この記事のキーポイント

  • 古代ブロンズ像の真実: 白い大理石のイメージとは異なり、目はガラス、歯は銀、唇は銅など、極めて色彩豊かで生々しい姿だった。

  • 復元像が持つ「仮説」の危うさ: 完璧に見える復元も、実は制作年代のズレや出土地の謎など、多くの未解決の議論(仮説)の上に成り立っている。

  • 複製品(コピー)の価値: 世界中に散らばるオリジナルを「同じ空間で比較・学習できる」という、本物にはない強みがある。

目次

リアーチェのブロンズ像とは?海中から発見された古代の遺産

展示のポスターにもなっています!

今回見た展示の中心にあったのは、リアーチェのブロンズ像です。

リアーチェとは、南イタリア・カラブリア地方にある小さな町の名前のこと。

今回訪問したゲッティンゲン大学での古代ブロンズ像の復元展示は、リアーチェのブロンズ像を中心に

「失われた過去をどう見せるのか」

「復元はどこまで本物を語れるのか」

「展示はどのように歴史の解釈を作るのか」

を考える場でもありました。

1972年に発見された「奇跡の2体」

1972年、リアーチェ海岸近くで2体の大型ブロンズ像が海中から発見されたそうです。

そのブロンズ像、現在では「リアーチェA」「リアーチェB」と呼ばれています。

なぜ古代の大型ブロンズ像は現存数が少ないのか?

ブロンズは再利用できる素材ということもあり、古代ギリシアの大型ブロンズ像がここまで残っていること自体、かなり珍しいそうです。

ペコ
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不要になったブロンズ像は基本的には溶かされ、別の像や道具、武器、鐘、大砲などの材料にされてしまいます。

古代には数えきれないほどのブロンズ像があったはずなのに、現在まで残っているものはごくわずかしかない。

だからこそ、海の中や地中から偶然発見されたブロンズ像は、古代彫刻を考えるうえで非常に貴重な資料になります。

想像以上にリアル!色彩豊かな古代ブロンズ像の正体

私たちは古代彫刻というと、白い大理石像や石膏像を思い浮かべがちです。

あるいはブロンズ像なら、緑青を帯びた渋い金属の像を想像するかもしれません。

でも、展示が見せていた古代ブロンズ像は、そのどちらとも違っていました。

古代のブロンズ像は、単なる金属の塊ではなく、さまざまな素材を組み合わせ、肌、唇、目、歯、血、髪、まつげまで表現していたんです。

銅で表現された「赤みのある唇・乳首・流れる血」

特に印象的だったのは、銅による表現でした。

ブロンズは銅と錫を主成分とする合金ですが、古代の彫刻家たちは、そこにさらに純銅のパーツを組み合わせていたそうです。

唇や血の表現などには、赤みのある銅が使われていたといいます。

Experimentelle Farbrekonstruktion des Faustkaempfers als Amykos

たとえば上記の拳闘士像では、顔や身体の傷、流れる血が生々しく表されていました。

鼻は折れ、耳はつぶれ、目の周りは腫れている。

古代スポーツの理想化された美しさだけでなく、試合後の痛みや疲労まで見えてくる。

まるでそれは、血の通った身体でした。

石やガラスで作られた「視線を生む目」

目の表現も、とても重要でした。

古代ブロンズ像の目には、石やガラス、場合によっては貝殻のような素材が使われていたそうです。

ペコ
ペコ

白目、瞳、虹彩を別々の素材で表し、像に視線を与えていたんですって!

目が入ると、像の印象は一気に変わります。

目の色合わせや作成方法についての展示

現代の博物館で見る古代彫刻は、目が失われているものも多いです。

そのため、どこか空白で、静かで、遠い存在のように見えます。

でも、本来そこに目があり、瞳があり、見る人を見返していたと考えると、古代彫刻はもっと強い存在感を持っていたはず。

銀の歯とブロンズのまつげが作るリアリティ

さらに細かいところでは、歯やまつげにも別素材が使われていた点でした。

歯には銀が使われることがあり、まつげは薄いブロンズ板で作られていました。

こうした細部を見ると、古代ブロンズ像は単に「人間の形をした金属像」ではなかったのだとわかります。

ペコ
ペコ
当時の彫刻家たちは、素材の色や光沢の違いを利用しながら、身体のリアリティを作ろうとしていたんじゃないかな。

復元展示が抱える「わかりやすさ」と「不確かさ」の境界線

今回展示されていたリアーチェ像も、オリジナルではありません。

オリジナルはイタリアにあり、ここにあったのは現代の3Dスキャン技術と鋳造技術によって作られたブロンズの復元像でした。

失われた武器や装飾、色彩まで含めて再構成された

「古代にはこう見えていたかもしれない像」

は、私たちに研究成果を直感的に伝えてくれるが、同時にそれは

「ひとつの仮説」

でもあります。

エレクテウスとエウモルポス:神話的対決の解釈

実際の像はすっぽんぽんなのでポスターで失礼!

今回の展示では、リアーチェの2体をアテネの神話的な王エレクテウスと、トラキアの王エウモルポスとして復元する案が紹介されていました。

この解釈に従うと、リアーチェAとBは、アテネのアクロポリスに立っていた神話的な対決場面の一部だったことになります。

だからか、復元像では、一方にコリント式の兜、大きな丸盾、槍が与えられ、もう一方には、トラキア風の狐皮帽、小盾、投げ斧が加えられていました。

装備が補われることで、2体の違いが一気にわかりやすくなり、物語を持つ存在として立ち上がってきます。

2体は本当にセットだったのか?沈没船の謎と制作年代のズレ

見た目にはとても説得力がありますが、問題はここから。

リアーチェAとリアーチェBは、同じ海域で発見されたため、もともと一組の群像だったのではないかと考えたくなります。

しかし、発見された周辺から沈没船の明確な痕跡が見つかっていないそうで。

つまり、2体がなぜそこにあったのか、どこから来たのかは今もはっきりしていないんです。

さらに、2体の「様式の違い」も問題になります。

リアーチェAは前5世紀前半から中頃の「厳格様式」に近い特徴を持つのに対し、リアーチェBはもう少し後の古典期の表現(ポリュクレイトスの《槍を持つ人》など)に近いそうで。

2体の間に一世代ほどの制作年代の差がある可能性があるなら、最初から同じ群像として同時に作られたという解釈は難しくなります。

粘土芯の化学分析から見える「南イタリア・シチリア説」

自然科学的な分析も、この謎を深めているそうです。

ブロンズ像を鋳造する際、内部に使われた粘土芯の一部が像の中に残ることがあります。

リアーチェ像の内部に残っていた粘土芯を分析したところ、その成分(ニッケルやクロムの比率)がアテネの粘土よりも、南イタリアやシチリアの粘土に近い可能性が示されたそうです。

この分析が正しければ、リアーチェ像はアテネで作られたのではなく、古代ギリシア人が植民市を築いたマグナ・グラエキアの地域で制作された可能性がある、とガイドで話されていました。

「本物じゃないから見えること」石膏像・複製コレクションの教育的価値

展示会場となったゲッティンゲン大学の石膏像コレクションは、18世紀から古代彫刻などの複製を集めてきた教育用の場所です。

一見すると、オリジナルではないものは本物より価値が低いように思えるかもしれませんが、本物ではないからこそ、見えることもあるのではないでしょうか。

世界中の作品を「同じ空間で並べて比較できる」強み

石膏像は、学習と比較のためのメディアです。

オリジナルの彫刻は、ギリシア、イタリア、イギリス、フランスなど世界中の博物館に散らばっているため、それらを一度に集めることは不可能です。

しかし複製や復元であれば、「デルフィの御者」「アルテミシオンのゼウス」「リアーチェ像」などを同じ空間に並べられます。

同じ場所にあるからこそ、身体の作り方、ポーズ、筋肉表現、制作年代の違いを直感的に観察し、比較して学ぶことができるんです。

ペコ
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似たようなことを、以前スプリッター先生のガイドツアーで聞きました!詳しくは↓

コピーを通してオリジナルを批評的に見る

今回のブロンズ復元像も、コピーでありながら、オリジナルについて考えるための入口になっていました。

復元像を見ることで、オリジナルに失われた目や色彩を想像できます。

逆に、復元像があまりにも完成された姿をしているからこそ、「これはどこまで根拠があるのか」と問い返すことも可能です。

コピーは、オリジナルの代わりではなく、コピーを通して、オリジナルそのものを見る目が変わるのだといえます。

Public History(パブリック・ヒストリー)の実践としての復元展

Public Historyは、歴史を専門家の研究室や論文の中だけに閉じ込めず、社会の中でどのように共有し、語り、体験するのかを考える分野です。

博物館や大学の展示室では、研究成果がただ並べられるのではなく、展示パネルの言葉や作品の配置、復元模型などを通して、歴史の見え方が作られていきます。

展示は「わかりやすい歴史」を作るメディアである

展示は、過去を見える形にし、観客に体験させる強力な方法です。

「古代彫刻は白かったわけではない」

と論文で読むのと、色づいたブロンズ像の目に見返されるのとでは、受け取る印象が違います。

一方で、観客は完成された復元像を「本来の姿(正解)」だと思いやすいため、わかりやすさには危うさもあります。

専門家ガイドが示した「感動しながら、少し疑って見る」という態度

今回ガイドツアーで素晴らしかったのは、復元像の魅力を認めつつも、

「でも本当にそうだったのか」

と、その不確かさや研究上の議論も含めて説明していたところでした。

歴史をわかりやすく伝えるために複雑さや不確かさを消してしまうと、歴史は単純な物語になってしまいます。

美しい復元に感動することと同時に、その根拠を考えること。

今回の展示は、過去を近づけると同時に、過去の「わからなさ」も伝える、Public Historyの理想的なバランスを示してくれていた。

まとめ|復元されたブロンズ像から学んだこと

HKHのコレクションにもいたおじさん

正直、息子の夜泣き対応で眠さも相まってドイツ語の展示パネルを前にして、

「これは全部読むの、今日は無理かもしれない」

と思いました😂

展示室には古代ギリシアのブロンズ像が並んでいて、見た目にはとても迫力がある。

でも、専門的な説明文を一枚ずつ読み込む体力はあまり残っていなかったのも事実です。

それでも、写真を撮り、ガイドツアーの音声を聞き、あとから内容を整理していくうちに、この展示はただの「古代彫刻を見てきた」話では終わらないと思いました。

眠くて読むのを諦めかけた展示でしたが、自分のペースで理解できたことで、結果的にはかなり良い勉強になりました。

今回のリアーチェのブロンズ像復元展は、私にとって3つの大きな気づきを与えてくれました。

  1. 古代は白く静かな世界ではなかった:素材の違いや表面処理を駆使したブロンズ像は、もっと色があり、光があり、身体の重さや痛みまで感じられる生々しいものだった。

  2. 復元は本物の代わりではなく、問いを生むもの:復元を見ることで古代の姿に近づくことができる。けれど同時に、「なぜこのように復元されたのか」と問い直すためのメディアでもある。

  3. 感動しながら、少し疑って見る:展示が提示する「わかりやすい歴史」に感動しつつ、その背後にある複雑さや未解決の議論に目を向けることの大切さを学んだ。

本物か偽物かという単純な二分法ではなく、それが何を見せ、何を問いとして残すのか。

その視点で見ると、複製・復元展示はこれ以上なく面白い空間でした。

【FAQ】リアーチェのブロンズ像に関するよくある質問

Q. リアーチェのブロンズ像のオリジナルはどこで見られますか?

A. イタリア南部カラブリア州の「レッジョ・カラブリア国立博物館(Museo Nazionale校 de Reggio Calabria)」に常設展示されています。

Q. なぜ古代のブロンズ像の目は不気味に、あるいは空白に見えるのですか?

A. 現代の博物館にあるオリジナル像の多くは、歳月の経過や海中での風化によって、はめ込まれていた目(ガラスや天然石)や歯(銀)などの別素材が失われてしまっているためです。

Q. ゲッティンゲン大学の石膏像コレクションとは何ですか?

A. ドイツのゲッティンゲン大学が18世紀から教育・研究用に収集している、世界各地の古代彫刻の複製(石膏キャスト)コレクションです。同じ空間で異なる時代の作品を比較できる貴重な学術資源となっています。

最後まで読んでくれてありがとダンケ!

あさひなペコ

    

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