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「歴史」と「記憶」は何が違う? 同じ過去をめぐる2つの向き合い方をPublic Historyから考えてみた

    
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「歴史」と「記憶」は何が違う? 同じ過去をめぐる2つの向き合い方をPub...
本記事はAIによる草稿作成およびサムネイル画像作成をお願いしています。 感謝!

 

ペコ
ペコ

Guten Tag!

ドイツでPublic History(歴史と公共)を学んでいる、あさひなペコです🐣

 

「歴史」と「記憶」。

日常では、かなり近い言葉として使われていることに気づきました。

 

昔のことを覚えている。

家族の思い出を語る。

戦争を忘れないために記念日を設ける。

学校で過去の出来事を学ぶ。

どれも「過去」に関わる行為ですよね。

ですが歴史学の立場から見ると「記憶していること」と「歴史として論じること」は同じではありません。

歴史は、残された証拠を検討しながら過去について説明を組み立てる営みであり、記憶は、個人や社会が過去を現在の意味の中で覚え、語り、受け継ぐ営みです。

そしてPublic Historyが面白いのは、この2つが博物館や記念碑、追悼行事、映画などの歴史コンテンツ、街の景観などで何度も交わるからです!!

歴史は「過去そのもの」ではなく証拠から組み立てる説明

まず押さえておきたいのは、歴史は「過去に起きたこと全部」と同義ではない、ということです。

歴史学は史料にもとづいて「何が起きたか」を論じる

American Historical Association(AHA)は、歴史を単なる「過去の事実のコレクション」とは説明していません。

歴史家は、同時代の文書、物、画像、口頭伝承など、残された証拠をもとに「何が起きたのか」「なぜそう考えられるのか」という議論を組み立てます。

だから歴史学では、出典が重要です。

誰が、いつ、どんな立場で作った記録なのか。
別の史料と矛盾しないか。
そもそも、残っていない声はないか。

そうした確認を繰り返します。

参考:American Historical Association, “Writing History: An Introductory Guide to How History Is Produced”

同じ史料から解釈が変わることもある

史料があるからといって、答えが1つに固定されるわけでもありません。

AHAの職業倫理規程も、歴史解釈は、新しい史料や研究によって変化しうるとしています。

重要なのは「好きな物語を選ぶ」ことではなく、証拠を示し、反証可能な形で議論することです。

つまり歴史学は、過去を覚えているだけではなく、残されたものを批判的に読み、説明の根拠を公開する方法を持っています。

参考:American Historical Association, “Statement on Standards of Professional Conduct” 

記憶は過去を「現在の私たち」に結びつける

一方、記憶が扱うのは、必ずしも「何が起きたか」だけではありません。

個人の記憶には経験した人の位置がある

たとえば同じ家族旅行でも、親と子では覚えている場面が違います。

それに、楽しかったことを強く覚える人もいれば、寒かった夜だけが残る人もいるでしょう。

どちらかが「歴史的に間違っている」という話ではなく、記憶には、経験した人の感情や立場、その後の人生が入り込みます。

社会も「何を覚え続けるか」を選んでいる

記憶は個人だけのものでもありません。

ドイツでは、1996年に当時の連邦大統領ローマン・ヘルツォーク(Prof. Roman Herzog)が1月27日をナチズム犠牲者追悼の日として定め、以後、ドイツ連邦議会でも毎年追悼式典が行われています。

ここで行われているのは、単なる年表の復習ではありません。

「この過去を、現在の社会はどう受け止めるのか」
「誰の声を次の世代へ渡すのか」

という現在側の選択が含まれています。

またUNESCOのMemory of the Worldでも、記録遺産は過去を理解する手がかりであるだけでなく、集合的な記憶やアイデンティティや文化に関わるものとして扱われています。

参考:German Bundestag, “Day of Remembrance for the Victims of National Socialism”

参考:UNESCO, Memory of the World

歴史と記憶では同じ出来事でも問いが違う

歴史と記憶は対立するものではありませんが、問いの立て方が違います。

歴史が問いやすいこと

何が、いつ起きたのか。
どんな原因や条件があったのか。
どの史料からそう言えるのか。
別の説明は可能か。

歴史学では、こうした問いを証拠と方法に結びつけて考えます。

記憶が問いやすいこと

私たちは、その出来事をどう覚えているのか。
誰を追悼し、誰を英雄として語ってきたのか。
どの出来事を「忘れてはいけない」と考えるのか。
その記憶は、今の社会に何を意味するのか。

ここでは、過去そのものだけでなく、現在の社会が過去とどう関係を結んでいるかが前面に出ます。

記憶は大切!史料批判と同じものにはしない

証言や個人の記憶は、歴史研究にとって重要な史料になりえます。

ただし、

「本人がそう覚えている」

ことと、

「出来事全体がその通りだった」

ことは別です。

逆に、史料で確認できないからといって、その人が感じた恐怖や喪失の意味が消えるわけでもありません。

歴史と記憶を区別するのは、どちらかを低く評価するためではなく、それぞれが何を語れるのかを丁寧に扱うためです。

Public Historyは歴史と記憶が出会う場所

Public Historyでは歴史学の研究成果だけでなく、歴史が社会でどう語られ、見られ、記憶されるかを考えます^^

そして歴史を感じられる場所や物は、上記の考えのもとに独自の歴史の扱い方があります。

博物館では「史実」と「見せ方」が同時にある

歴史を学ぶ場所の代表格が博物館ですよね!
博物館の展示では、史料の年代や来歴を正確に示す必要があります。

同時に、何を展示し、どんな順番で語り、どの証言を聞かせるかという「記憶の設計」も起こります。

記念碑では「過去」より「現在」が見えることがある

次に代表的なのが記念碑。

記念碑を見るときは

「何が起きたか」

だけでなく、

「誰が、いつ、なぜこの記念碑を建てたのか」

を見ると、その社会が過去をどう記憶しようとしたかが分かります。

記念碑そのものが、後世の歴史家にとって史料になるわけです。

街の記憶

街の記憶は一枚岩ではありません。

1つの戦争、1つの建物、1つの地域をとってみても、住民だけでなく行政や被害者、移住者、観光客では、記憶の持ち方が違うことがあります。

だからこそPublic Historyでは、「正しい記憶を1つ決める」よりも、どの記憶が公共空間に現れ、どの記憶が見えにくくなっているかを考えます。

次に記念碑や博物館を見たら3つの問いを分けてみる

難しい理論を知らなくても、歴史と記憶の違いは現地で試せます!

1.この出来事について何を根拠に説明している?

たとえば年代や史料、証言、出典。

これは歴史学側の問いです。

2.なぜこの出来事を今ここで覚えようとしている?

こちらは記憶文化側の問いです。

記念碑で例えるなら、記念碑を建てた年代や式典、使われている言葉、語られている人。

上記の視点で見てみましょう。

3.語られていない記憶はない?

誰の経験が中心に置かれ、誰の経験が背景へ退いているのか。

ここまで見ると、過去と現在の関係が立体的になります。

おわりに|歴史と記憶は同じ過去を別の角度から扱う

歴史と記憶は、どちらも過去に関わります。

ただし、歴史は証拠を検討しながら過去について説明を組み立てる営みであり、記憶は個人や社会が過去を現在の意味の中で受け継ぐ営みです。

この2つを混ぜないからこそ、博物館や記念碑、追悼式典をより深く見られます。

「これは何が起きたことを説明しているのか」

「私たちはなぜこれを覚えようとしているのか」。

その2つを往復して考えるところに、Public Historyの面白さがあります!

 

最後まで読んでくれてありがとダンケ!

あさひなペコ

    

小さなデジタルZINEと5通の“知の旅便り”。

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