歴史を考えるとは?過去と現在をつなぐ「思考」の時間
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歴史を考えるとは?過去と現在をつなぐ「思考」の時間
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Guten Tag!
ドイツでママ大学院生をやっている、あさひなペコです🐣
突然ですが、この記事を開いてくれたあなた!
「歴史を考える」瞬間って、どんなときですか?
そんな問いをきっかけに、今回は「歴史を考える」ことについて、私なりに書いてみようと思います。
「歴史を考える」瞬間って、どんなとき?
歴史を考える——というと、難しそうに聞こえるかもしれません。
でも実際は、誰もがふとした瞬間に“歴史と出会って”います。
たとえば、旅先の博物館で目にした古い写真。
祖母が語る昔の話。
あるいはニュースの中の「かつて」という言葉。
その一瞬に、「自分はどこから来て、どこへ向かうんだろう」と思いを巡らせることがあるなら、それももう、歴史を考えている時間です。
過去といまがつながる瞬間
「歴史を考える」タイミング。
私の場合は、展示物や手紙や文章を見ていて、
「この人たちは、何を思っていたんだろう」
「この物/手紙を通して、何を伝えたかったのかな」
「どんな思いでこの物/手紙をつくったのだろうか」
という時です。
もちろん、経験者の話を聞くときにも同じようなことを深く考えるようになりました。
その瞬間、自分が「いま」を生きていることと、過去の誰かが「かつて」を生きていたことが、一本の線でつながった気がします。
私にとって「歴史を考える」とは、そんなふうに時間の中に立ち止まり、「過去といま」のあいだに耳を澄ますことなのかもしれません。
学問としての思考、日常としての思考
ある日、授業で「歴史をどう“語る”か」というテーマを議論していたときのこと。
ふと、自分が普段どんな場面で“考える”ことをしているのか、思い返しました。
最近では、「考える」という行為の中身が少しずつ変わっているような気がします。
カッセル大学で歴史と公共について学ぶようになってからというもの、「考える」という行為が、必ずしも「知識を増やすこと」「机の上の作業」だけじゃないと思うようになったのです。
むしろ、スーパーからの帰り道や、子どもと歩く公園の中にも、「歴史を考える」きっかけが転がっている。
学問としての思考と、日常としての思考のあいだにある小さな橋について、ここで少し話してみたいと思います。
学ぶことは「考え方」を学ぶこと
本を読み、資料を追い、史料を分析する。
そうした作業を通じて分かったのは、歴史学は「事実を集める学問」ではなく、「問いの立て方」を学ぶ学問だということ。
たとえばポストコロニアリズム理論の授業や、ギリシャの壺絵ゼミで学んだように、ひとつの出来事や絵にも、いくつもの見方がある。
誰の視点で、どんな言葉で、どの時間から語るか。
考えるとは、その「角度」を見つけていくことなんだと思うようになりました。
日常の中で考えるということ
でも、思考は教室の中だけで起こるものではありません。
ニュースを見た時、子どもとの散歩の途中に見つけた記念碑、誰かと交わす「昔話」などなど。
それらもまた、過去をどう捉えるかを私たちに問いかけてくるように感じます。
とくにジャーナリズム文章の授業やゲームで歴史を学ぶ授業では、一般層に向けた歴史の伝え方について学びました。
一般の人にとっての歴史と、学問にして学ぶ人との歴史は違います。
歴史の伝え方次第では、小難しい歴史というテーマですらも、もっと興味が出るかもしれませんよね。
歴女って、こういう仕組みでできていくんだなと思います(笑)
日常の中でふと考えることだって、歴史を学ぶという思考の入口になっているのかもしれません。
過去を考えることは、未来を想像すること
「考える」ことは過去を整理する作業と思われがちですが、実際には「未来を描く行為」でもあります。
時間をたどるたびに、私たちは無意識に「どんな世界を残したいか」を想像している。
ここでは、授業の中で出会った印象的な言葉から、その感覚を少しだけ覗いてみたいと思います。
「未来の過去」という視点
歴史哲学ゼミで出会った「Anthropozän(人新世)」という概念。
それは「人間の活動が地球の時間を変えてしまった時代」という意味でした。
期末レポートを書くために読んだテキストの中に、こんな一節がありました。
「私たちは、未来の誰かが“過去”と呼ぶ時間を生きている。」
その言葉に、私は息をのんでしまいました。
「歴史を考える」という行為は、過去を振り返るだけでなく、未来にどんな過去を手渡したいかを想像することでもある。
いま考えること、語ること、書くこと。
そのすべてが、誰かの時間の一部になっていく。
そう思うと、「考える」という行為が少しだけ温かく、責任を帯びて見えてきます。
歴史哲学ゼミについては以下の記事で詳しく書いているよ!
思考のなかにある希望
たとえ時代が変わっても、人が考えるという行為には「未来への余白」があります。
考えるということは、答えを急がずに、「いま」を少し引き延ばしてみることでもある。
その一瞬の「間(ま)」の中で、まだ形になっていない可能性が息づいているのだと思います。
問いを手放さずにいる限り、世界は閉じない。
すぐには答えが出なくても、問い続けることそのものが、希望の形なのかもしれません。
だから私は、「歴史を考える」という行為を、書くことで少しずつ手渡していきたいと思っています。
「考える」ことの記録として始めたこと
「考える」ということは、特別な哲学ではなく、日々の生活の中でふと立ち止まることだと思います。
料理をしながら、散歩をしながら、あるいはニュースの一文に引っかかりながら。
そんな瞬間に、世界をもう一度見つめ直す。
このブログでは、その小さな立ち止まりを言葉にしています。
どれも完結した答えではなく、考え続ける途中の記録です。
もしあなたにも、日常のなかで「ん?」と立ち止まる瞬間があれば、それはもう、同じ旅が始まっているのかもしれません。
考えることは、いまを生き直すための、静かな練習。
このブログでは、考える時間を少しずつ記録しています。
もしもう少し深く読んでみたい方は、デジタルZINE『知の旅便り』で、授業や日常の中で見つけた「問い」を、もう少し丁寧にまとめています。
のぞいてもらえたら、とても嬉しいです^^
最後まで読んでくれてありがとダンケ!
あさひなペコ